特集 あなたと私の人生会議を考える 第2回

 

今回は、しゃくなげ荘の施設長山本進が、高齢者ケア研究会の機関紙に寄せて書いた「特別養護老人ホームで看取りをする時代になって」を紹介しながら、林先生にいろいろと教えていただきたいと思います。

【特別養護老人ホームで看取りをする時代になって 山本 進】 より抜粋

特養ホームでの看取りは事件だった

〈35年前の介護現場〉

私が特養ホームに勤めたのが今から35年前です。その当時は施設での看取り介護など考えられない事でした。当時は、“介護”という言葉もなく、“療養上の世話”とか“処遇”でした。職員は“寮母”(男性は寮父)と呼ばれ、入浴・食事・排泄などの世話を提供するのが仕事であり、看護師と共に健康管理に配慮し異常を発見した場合には速やかに医療機関につなぐことが本分でした。つまり、健康状態が悪くなってきた利用者は病院に入院させるのが当たり前だったわけです。あのころ「うちの施設では今まで一人の死者も出したことがない」と、自慢する施設長もいました。利用者を早めに入院させ病院で最期を迎えさせるのが良い介護という時代だったのです。

したがって、生活指導員(現在の相談員)と呼ばれた私の仕事は、施設入所の調整も大事でしたが、入院者の搬送や付添い者の手配に追われる日々でした。あの当時は完全看護の病院は少なく、病院側は付添いを付けなければ入院させてくれないのが一般的でした。しかし、さまざまな事情を抱えた利用者たちの中には家族がいない方たちもいました。それで頼りにしたのは家政婦たちでした。急な場合はすぐには派遣してもらえませんから、すでに病院で患者に付いている家政婦に掛け持ちを頼み込むのです。それにしても彼女たち(かなり年配のベテランが多かった)は、ほとんど休みもなく年中病院の床で寝起きする生活を続けるスーパーウーマンたちでした。

家政婦たちと仲良くしながらの仕事ではありましたが、私の心の中には施設入所者を集めてきては入院させる仕事に疑問が生じていました。病院に入院しても、そこからは家政婦たちがオムツを替えたり、食事介助したりして過ごしているのです。回復すれば退院して施設に戻りますが、そのまま病院で最期を迎える方も少なくなかったのです。いつしか風の便りで○○さんが亡くなっていたことを知るというのは味気ないと感じたのです。手術などの高度医療を受けるならいざしらず、老衰による死を迎えるために特養ホームから病院に入院し、家政婦たちに看取ってもらうのならば、特養ホームの存在理由は何なのだろうか。精一杯長生きしてきた方々が、最期を迎えることを忌み嫌うようにして病院に押し付けるというのはあまりにも中途半端な存在に思えてなりませんでした。

~つづく~

鹿追国保病院院長 林修也先生のインタビュー

鹿追国保病院院長 林修也先生に、先生が働き始めた頃のお話を聞かせていただきました

私が大学を卒業して医師として仕事を始めたのは1990年(平成2年)春、ちょうど山本施設長がしゃくなげ荘で勤務を始めた5年後です。その後、大学病院、中核都市の大病院、町立病院などで勤務してきましたが、その間に人生の最終段階の医療(当時は終末期医療)は大きく変化してきました。

30年前を振り返ると、例えばがん患者さんの場合、大学病院でさえ正しく病名を告知することが多くありませんでした。ひたすら病名を隠し、フィクションの説明をして手術を行ったり、抗がん剤を投与することも多かったと記憶しています。当時は病名や余命を伝えないことは患者さんのためだという認識でしたが、私たち医療者がどうやって患者さんに伝えるべきかの知識や経験に乏しかったというのが実情でした。

がん患者さんに限らず、老衰や認知症末期などの決して完治しない病状の時も、最期まで考えられる全ての治療を行いました。抗生物質、昇圧剤、酸素投与、栄養点滴、人工呼吸器などを行うと全身が管だらけになり、いわゆる”スパゲティ症候群”という言葉が生まれたのです。

また自分で食べられなくなったら、人工栄養(胃ろう/経鼻胃チューブ/点滴)を患者さんや家族の意向に関わらず、当然のように開始しました。当時は食べられなくなった人に人工的な栄養を行わないことは餓死させることと同じと多くの医療者が考えていたと思います。

がんの末期や老衰であっても、息を引き取る際は儀式のように心臓マッサージを行うことを若い医師は先輩から教えられていました。回復しないと解っているのに”治す努力”をすることが病院として当たり前の”業務”だったのです。今思えば、それは患者さんのためにではなく、そうすることで自分たち医療者が非難されないためだったのかもしれません。

私たちもそうした医療が正しいと思っていたわけではありません。心の奥底では、天寿を全うしようとしている時に、自分たちの行う医療が本当に必要なのか、余計なおせっかいで苦しませていないのか、自分には決して行いたくない医療を患者さんに押し付けているのではないかと自問自答していました。
しかし、そうした患者さんの権利や尊厳を侵害しているのではという倫理的な問題に気が付いていても、それを解決する方法を私たち医療者だけではなく多くの日本人は知らなかったのです。

当時は死について考えることや、口にすることはタブーでした。病院ではなおさら死は忌み嫌うもの、縁起でもないことでした。人間も生き物ですから一度は必ず死に至るのに、それを”万が一”と表現するのが日本の文化です。今では当たり前になっていますが、当時の医学部の教育カリキュラムに、死を前提として考える”緩和医療”や”看取りの医療”という概念が十分に根付いていなかったのです。

そんな時代でしたから、私自身も患者さんは病院で亡くなるのが当たり前で、現在のような施設や在宅での看取りなど想像もしていませんでした。それが今のように、患者さん、家族、医療スタッフが正確な情報を共有して、患者さんの人生観、価値観、死生観などをふまえて、治療方針に加えて、人生の最終段階をどこでどのように生き、どのような最期を迎えるかを、皆で一緒に考えるような意識と行動の変化を起こすまでには、とても長くて困難な道のりがありました。