特集 あなたと私の人生会議を考える 第5回

 

今回は、山本施設長自身の家族についてのお話です。

林先生にはお休みいただいて、次回からまた教えていただこうと思います。

【特別養護老人ホームで看取りをする時代になって 山本 進】 より抜粋

看取り介護に引きずられた背景

私の生家は十勝地方の鹿追町の農家でした。大正時代に祖父母が土地を求めて移住して農業を営み、長男が継ぎ、次男が戦死、三男の私の父が分家して基盤を作ろうとしていたようです。本来なら三男坊の父は自由に身の振りを決められたはずですが、次男が戦死したために親の言いつけに従い、分家になるしかなかったと聞いたことがあります。私の母との結婚も親が決めたもので、結婚披露の日に初対面したくらいの時代ですから、子供が自分の生き方を自由に選択するのではなく、親が決めるのが普通だったようです。まして、農家などの自営業は土地などの資産を元手に生計を立てているのですから、子供に跡を継がせることで一家の財産を護ろうとすることは理解できます。また、年金も健康保険もない時代ですから、子供を手元において自らの老後の面倒を見てもらおうとすることも当然のことだったでしょう。しかしながら、やはり人生は何が起きるかわからないもので、私の家にも次々と問題が起きてきます。


隣の本家は4人の子供に恵まれたのですが全員女の子でした。つまり、後継ぎが生まれなかったのです。さらに、分家の私の家では女の子が2人続きました。私の両親もプレッシャーだったろうと思います。そしてついに待望の長男である私が生まれたわけです。やっと後継ぎが出来たと思った矢先に災難が続きます。本家の大黒柱である叔父が49歳で病死しました。昭和35年、私が2歳の時でした。さらに翌年、私を非常に可愛がってくれた祖父が亡くなったのです。山本家の本家は姑と嫁の両未亡人と4人の孫娘が残されました。当時の農業はほとんど機械化もされておらず、馬と人力が頼りの時代ですから、本家の生活は大ピンチをむかえたのです。みんなが生きるために必死に闘った結果、祖母は土地などの財産はすべて長男の嫁である叔母に譲り、家を出て一人暮らしをすることになりました。祖母の生活費は戦死した次男の恩給があったので保障がありました。家族会議では、叔母は娘と農業を続け、将来は婿をとって家を存続させるつもりとのことだったようですが、結果として土地は売却され娘たちは全員他家に嫁ぎ本家は消滅しました。
祖母の扶養をせず、先代から引き継いだ財産を売り払ったということでわが家と本家はすっかり疎遠になっていきました。私をかわいがってくれた叔母さんや従妹たちと会うことすらなくなったのです。年寄から順番に亡くなり、財産や墓・仏壇などの祭祀の継承も順調に運び安泰が続くのでしょうが、そんな期待も中心になる人の死によってあっという間にはかなく崩壊する程度のものでした。

私はこの経験から、家という概念、死と祭祀、家族と高齢者介護など家族問題が大きな関心事として心に引っ掛かり続けていました。だからこそ死と家族、人々の老後に訪れる介護の問題などにかかわりたいという思いがあったのだろうと思います。なんせ私自身が“長男の責任”にとらわれた旧いタイプの人生観を持っているのですから、この種の悩みを抱える方々を支援することは、自分自身の人生の課題と重なりあうことだと思っています。