特集 あなたと私の人生会議を考える 第4回

 

【特別養護老人ホームで看取りをする時代になって 山本 進】 より抜粋

やっと施設での看取りへの道が開けるかもしれないと期待した直後に衝撃的なニュースが飛び込みます。
平成9年に財団法人長寿社会開発センターから出された「福祉ターミナルケア」に関する調査報告書をめぐって、厚生省を揺るがすような議論が沸き起こりました。
医師会の幹部を中心に反論が提起されるなかで前記の報告を出した責任者が、これぞ「福祉のターミナルケア」の実践だと主張した事例としてNHKのドキュメンタリー「老人ホームでみとりたい」が全国放映されて、国会に取り上げられるような大激論になっていきました。
番組の舞台は私の地元北海道十勝にある「とよころ荘」で、看取りのキーパーソンは私の信頼する友人の生活指導員だったのです。テレビを視聴したときは拍手喝采の気分でしたが、その後、議論は医師会幹部の論陣が優勢になり、老衰期であってもきちんとした医学的検査を受けずに施設での看取りをすることは、“みなし末期”であり、高齢者の生きる権利を無視するものだという批判に全国の医師たちも慎重にならざる得なかったのだと思われます。
胃瘻を増設する高齢者が激増して社会問題になったのもこのころからです。医師は患者の生命の維持のために最善を尽くさなければ、“保護責任者遺棄致死罪”に問われる可能性を指南する意見もずいぶん耳にしました。
いつの間にか特養ホームは医療機関ではないので、ターミナルケアという言葉を使わないという自主規制にもつながりました。
その後しばらくの間、当施設においても特養ホームでの看取りは停滞期に入り、旧態依然の運営形態のまま介護保険制度のスタートを迎えました。

鹿追国保病院院長 林修也先生に、「みなし末期論争について」お話を聞かせていただきました。

”みなし末期”論争は、高齢者の”真の末期”とは、どういう状態かを見極めることが、医学的に非常に難しい問題だから起こった論争です。
がんの末期だけは例外で、比較的、見極めることが容易です。転移などで手術や薬による治療が期待できないほど進行したがんの場合は、悪化の一途をたどるので、余命が数週間とか、数か月とか概ね予想することが可能だからです。
しかし、高齢者の、心臓、肺、腎臓などの慢性疾患や認知症の場合、がんの場合と異なります。
数年の経過で、良くなったり、悪くなったりを、何度も繰り返すうちに、次第に衰弱していくことが多いのですが、ぎりぎりの状態が長く続くこともあり、いつからが終末期かの判断は容易ではありません。
また、高齢者は、検査や治療を行うこと自体が、体に負担になりますし、治療で改善する可能性を事前に予測することが、若年者に比べて難しいのです。ですから、積極的に治療を行うべきか、差し控えるべきかを決定することがとても困難です。
わずかな可能性にかけても助けようと、積極的に治療を行って亡くなった場合、必要以上の治療で患者さんを苦しめてしまったのではという疑念が生じます。
逆に、苦しい思いをさせないようにと、治療を差し控えて亡くなった場合、”末期とみなして”必要な治療を行わずに、命を縮めてしまったのではという疑念が生じます。
どちらも患者さんのためを思って判断するのですが、高齢者ほど医療の結果予測が不確実なために、私を含め多くの介護/医療従事者が、こうしたジレンマに悩み、施設での看取りの関する”みなし末期”論争が起こったのだと思います。
しかし、そもそも高齢者の医療に正解はないのです。
高齢だから、特養ホームだから、という理由だけで、検査や治療介入を行わないとしたら、それは差別にすぎません。
ひとりひとり個別に、年齢や療養場所だけでなく、医学的判断はもちろん、人生観、価値観、死生観をふまえて、本人、家族、介護スタッフ、医療者が、共に話し合ったうえで、治療の継続や、治療からの撤退を検討することが大切なのだと思います。


林先生が撮影した写真

サンタになった林先生